神撫会 東京・高19回

ミニ校史・抜粋

新訂版 ミニ校史・抜粋

新訂版 ミニ校史2010 
(10年前に出た 恩師 前田米太郎先生 編集の「ミニ校史 三中・長田高校の80年」に
対して追補・新訂したもの。 90周年を機にこの '10.09.18に出されました。
前田先生以外に同窓生20回生他の手になるもの。) その中から 19回生に関係のありそう
なものだけピックアップします。我々の在校当時の3年間が何となく思いだされるのでは。全96頁。

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【モノ】 制服・襟章

 (1)女子制服 
「昭和26年に女子の制服が選定された。・・・佐々木きぬ先生(家庭科)、
川端謹次先生(美術科)のお二人の指導のもとで決定。」
デザイン図には 長田のイニシャル“N”の文字が見えます。

 (2)学年章
白・・・3n回生 >> 18回
青・・・3n+1回生 >> 19回
赤・・・3n−1回生 >> 17回   

【モノ】  建物(剣道場・北校舎)

 (3) 講堂今昔・・・至誠館
昔 見たことのある 柔道場の隣の建屋の写真がありました。ボロボロの
様子なので当時我々が見ていたものに似ています。剣道場だったところです。
写真の説明に「仮講堂(至誠館)」とあります。

 

 (4) 北校舎の窓
左写真の下に 「昔の窓は1階観音開き2階以上回転窓」 と説明がありますが、
昭和50年頃には引き戸の窓枠に替えたそうです。
「上の窓から重いものが落ちると 下の階の窓ガラスが次々に割れたことがある。」 

 

【モノ】 記念品 

 (5)卒業生への記念品
PTA(育友会)からの記念品として男子は小型のバックルをもらいました(右下)。
はて 頂いたものはどこへいったやら。

 

 

【モノ】 美術作品

 (6)校内にある美術作品
恩師 川端謹次先生の絵画が6点もあるそうです。
波止場  80号、   神戸港  100号、   春の山   20号、
鯉     20号、   一の谷   30号、   山と川   10号

 


【行事】 マラソン・文化祭

 (7-1)校内マラソン大会
押部谷の県道を走る(昭和41年)と左の写真に説明があり 19回生アルバムに
あったものが掲載されていました。
「昭和40年〜昭和42年は、押部谷小、中学校をお借りして更衣し、県道を神鉄沿いに
往復しました。当時この辺りは、白川付近で道路の拡幅工事が行われ、 三宮方面に
広い道路が通じていなかったので車がほとんど通らず、見渡す限り田畑で折しも稲刈り
まっ盛りの静かな道でした。」とあります。 

 

 

 (7-2)同上 参加率  ’12.09.23追
谷川先生手書きの校内マラソン大会・学級対抗成績表には各クラスの参加率も
記入されていました。その参加率を見ると各クラスのスポーツに対する意欲をうかがう
ことができるのかも。ご自分が走ったかどうか、結果がどうだったか?

 

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 (7-3)在校時の文化祭パンフ  ’15.07.19追
('64)S39.5.10 17回文化祭。表紙・部屋部活紹介1部活2部活3(S.青木氏提供)。
('65)S40.5.9 18回文化祭。表紙・部屋プログラム部活紹介1部活2裏表紙?( 同上 提供)。
('66)S41.5.8 19回文化祭。表紙展示部屋割部活紹介(一部だけ)。

 

 

 

【記録】 校地・校舎

 (8)校地・校舎の変遷
「V.長田高校 成長期 (昭和30年ごろ〜平成4年ごろ)
校舎の復興が始まり、近代的な施設がほぼ整った時期」(復興とは 戦災の後の復興のこと)
・・・とありますが、我々在校時には 図の左下に 新しい体育館はまだなく
昔 柔道場と剣道場に使った古い建物が残っていました。 

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【記録】 生徒居住区

 (9)生徒居住区の移り変わり
「三中時代は校区が広く・・・・昭和27年に中学区制になって今の学区が決められて
からは、長田区に住む生徒数が60.5%でトップになりましたが、2、30年前からの
都市のドーナツ化現象によって都心の住宅が減り始めたのと、田園部や丘陵部が宅地に
開発されて住宅がどんどん増えたために長田区の生徒数は漸次減少し、昭和50年代は
垂水区がトップになり、昭和60年に西区が誕生して、現在では西区の生徒数が 42.7%
まで増加し、長田区は5.3%になっています。」 ・・・>>H27年度 居住区分布状況

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【記録】 長田駅

 (10)山電長田駅付近
「写真1では電車から降りた人が、電車が通り過ぎるのを待ってレールを渡り、信号のない
車道を渡って北側の村野工業高校の方へ渡っています。」
我々が通った時代は 前項の生徒居住区の割合から推定すると1/3〜半数くらいの人が
この駅と電車のお世話になったのでしょうか。

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